脳を活性化すると運命とチャンスが訪れる!
人間の運命は、歯車の如くでもあり、浪のようでもある。
運命波の高低差Dは、大きく、周期率Eは、さほど長短の変がないようで、大体10年一節のようだ。
そうしてドン底の3の4、5年。これが余り永いのは深因がある。因を取除く外ない。
妙法は厳存する。この浪! 人生の波浪!は、よほど、積善の家か、前世で、本人何世のため、人のため、善を残したか、儲けながらも、現に徳を積みつつあるか、でない限り、大方の人は味わう浪であろう。
「栄枯盛衰、世の習」とも「人生塞翁が馬」とも「人生走馬燈の如し」ともいう。
そして、Aで、我と慢心が、高潮期に達した人、或は、悪業の集積の人であれば、転落が来て、落差Dは大きく、Bは長期となる。
相応、因果の理によって、致し方なし。Bで沈淪して、意気消沈、自殺にすら行く。
Aの時、金の使い方が善であったり、正しくあった頑張り屋か、経済的に、堪えれる余裕を、造っておいた人は、また上向きになって次の山へのし上る。
Aの時、慢心せず、Bあることを予期し、準備して置くような人か、FからAへの途上の悪を、悔い改めて行く人なら、Bに迄行き着かないで、B`で済み、たといBに行っても、窮せず、焦らずで、短期高揚への上昇期を信じつつ、Cを準備する。枯に窮窮しない。
無準備で、Bに行きついたとしても、悪ではなかったり、反省のできる人なら、そして真(誠とは違う)で念ずる人であれば、天から声あって、窮すれば道通ずで、徐々に又は急激に、Cへ躍動が始まる。
Bで、一切が失われたとしても、悲観の要はない。此の際 悪徳の罪業の業だけは、致命的となることがある。
時として、全財を失い、或は、命をすら失う。真に、改心を要する時でもある。
過ぎ越し方が、善てありヽ真の努力であれば、B時代は、人格の円熟や、智能経験の拡大伸張期であって、晩成への要道となる。
竹に節あり、レンコンの伸びにも節があると同じだ。
少し高い思いはするが、月謝と思えば、先ず間違いないようだ。
高揚周波の上りは、登りなるが故に、幸い。
八合目は、殊更だ。此処で「どうして斯う、苦が続くのだろう」と、反省は必要だが、「見込がない」「神や仏など、あるもんケ工」てなことになると、挫折となり、大変なことが起き、人生峠の太陽見ずじまいとなる。惜しい哉。といって、執着は禁物だ。
冷静な自己批判の必要期である。大事なのは、ゴールインだ。八合目の雲の浪を打破って、初めて、人生、御来光を拝むのは、富士山だけじやない。
これらが、凡人成功者の常道であろうし非凡に通ずる。ただ、天の大任を持つ偉人とやらは、幾度か、AからB、BからCへ、そして、或はD、E、F、と、激流と高浪とに翻弄される。即ち、高低浮沈の差も頻度も大きい。
自然界では、大任あるものに、名刀鍛錬、熱湯極冷の教えをすら与え給う。これを人生の試しという。
さもあらん、獅子でさえ、子を以千仭の谷に蹴落すことがあるというのだもの。
況んや、自然が人間に対する大愛に於て親である。
自然に慈悲なしだ、なんて考えると、大変な間違いになり、却って自滅に行くことさえある。大慈のみ働きと、大悲のみ働きがある。
僕は、Cの時迄、我を張って、Cで慢心しては脳の怠慢化であり、人の意見など糞喰え、いや、嘲笑を心に伏せて、Bも又、脳のリフッレシュなく準備しなかった。
何一つ枝を付け、徳の根分けをして置かなかった。故に此の年になって失敗者となりチンピラに落ちた。
ヤット、覚らされて、これから、Bの余生に這入る。「遅かりしは、由良之助」だけじやなかった。
年頭、人生の波を見つめて、今後の残生、如何なる型の浪打たせんか。来って心眼を開かんとせよ。人生開眼の時を得んとせよ。
偉大なる脳の活性化で人生始めての、そして最後のお年玉となろう。