ララ物資についてとは
ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)の提供していた日本向けの援助物資のこと。
ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日系米国人の日本向け援助団体。 1946年1月22日にアメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心となり、主な支援物資は長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類であった。
当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志団アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があった。反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。
なお、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。
2011年2月11日金曜日
ララ物資その2
ララ物資の真理
第二次世界大戦後、わが国は、衣食住すべての面において、極端な窮乏状態になりました。「腹を空かせ、病に苦しむ日本の子供たちを救おう」と、食料品や医薬品さらには日用品などの膨大な救援物資が「ララ物資」あるいは「ケア物資」として海外のNGOの手により届けられ、
1946年から1952年までの間に、1,400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われます。
外務省の資料によると、ララ物資については、「多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったため、その救援総額は不明であるが、膨大な額であったと思われる」と記されており、非常に多くの人々の善意の賜物であり、汗の結晶を頂いたことを忘れてはならないと思います。そして、その陰には、米国在住の一人の日本人の並々でない努力と貢献によるものであることを「感謝」をもって長く記憶しておきたいと思います。
サンフランシスコに在住していた浅野七之助氏(盛岡出身、1900~1998年)は、戦後、米国在住の日系人の権益回復・擁護のため、日夜、奔走していましたが、戦後日本の窮状を知り、「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」として、1945年11月に同士10人足らずで「日本難民救済有志集会」を開き、邦字紙「ロッキー新報」に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、救済運動の盛り上げを図りました。
そして翌1946年1月に「日本難民救済会趣意書」を起草し、サンフランシスコ湾東地区在住の日系人を中心として集めた浄財で物資を購入し、「海外事業篤志団アメリカ協議会」を通じて日本に送ろうとしたが、同協議会はヨーロッパの戦災難民救済を対象としており、日本には送ることはできないことが判りました。そこで、川守田牧師らを通じて宗教団体に働きかけ、大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするように陳情しました。
1946年9月、漸く認可に漕ぎ着け、日本に救援物資を送ることができる公認の団体・LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia)として発足することができましたが、認可取得に当たっては、後にLARA中央委員会委員として継続的に活躍されたE.B.Rhoads女史(1896~1979)の尽力が大きく貢献いたしました。
同女史は、1917年、21才の若さで東京フレンド女学校(現 普連土学園)の教師として来日。またフレンド流(クェーカー教徒)の牧師として滞日していたが、太平洋戦争が始まると同時に帰国しました。しかし、米国では転住所(戦時中における日系人の強制収容所)につながれ、多数の日系人の世話をすると共に、国務省に「日本爆撃即時停止」の嘆願をするなど、平和促進運動に努められました。そして浅野七之助らが「日本難民救済会」を公認団体として救済統制委員会に申請したときに、いち早くこれをとりあげ、ライセンス取得のために尽力しました。その後は、再度来日して、ララ中央委員として活躍する一方、バイニング夫人のあとを受けて、皇族の英語教師を務められた方です。
これら関係者の献身的な努力が実り、救済品を満載したハワード・スタンバーグ号は、クリスマスに間に合うように早くも1946年11月30日に横浜港に到着しました。さらに1948年には、6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始されました。
ララの認可に伴って、日本難民救済会の運動は、米国、カナダ、メキシコ、ブラジル、チリ、アルゼンチン、ペルー等南北アメリカ大陸に除々に拡大していきました。
外務省の資料によると、ララ物資については、「多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったため、その救援総額は不明であるが、膨大な額であったと思われる」と記されており、非常に多くの人々の善意の賜物であり、汗の結晶を頂いたことを忘れてはならないと思います。そして、その陰には、米国在住の一人の日本人の並々でない努力と貢献によるものであることを「感謝」をもって長く記憶しておきたいと思います。
サンフランシスコに在住していた浅野七之助氏(盛岡出身、1900~1998年)は、戦後、米国在住の日系人の権益回復・擁護のため、日夜、奔走していましたが、戦後日本の窮状を知り、「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」として、1945年11月に同士10人足らずで「日本難民救済有志集会」を開き、邦字紙「ロッキー新報」に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、救済運動の盛り上げを図りました。
そして翌1946年1月に「日本難民救済会趣意書」を起草し、サンフランシスコ湾東地区在住の日系人を中心として集めた浄財で物資を購入し、「海外事業篤志団アメリカ協議会」を通じて日本に送ろうとしたが、同協議会はヨーロッパの戦災難民救済を対象としており、日本には送ることはできないことが判りました。そこで、川守田牧師らを通じて宗教団体に働きかけ、大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするように陳情しました。
1946年9月、漸く認可に漕ぎ着け、日本に救援物資を送ることができる公認の団体・LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia)として発足することができましたが、認可取得に当たっては、後にLARA中央委員会委員として継続的に活躍されたE.B.Rhoads女史(1896~1979)の尽力が大きく貢献いたしました。
同女史は、1917年、21才の若さで東京フレンド女学校(現 普連土学園)の教師として来日。またフレンド流(クェーカー教徒)の牧師として滞日していたが、太平洋戦争が始まると同時に帰国しました。しかし、米国では転住所(戦時中における日系人の強制収容所)につながれ、多数の日系人の世話をすると共に、国務省に「日本爆撃即時停止」の嘆願をするなど、平和促進運動に努められました。そして浅野七之助らが「日本難民救済会」を公認団体として救済統制委員会に申請したときに、いち早くこれをとりあげ、ライセンス取得のために尽力しました。その後は、再度来日して、ララ中央委員として活躍する一方、バイニング夫人のあとを受けて、皇族の英語教師を務められた方です。
これら関係者の献身的な努力が実り、救済品を満載したハワード・スタンバーグ号は、クリスマスに間に合うように早くも1946年11月30日に横浜港に到着しました。さらに1948年には、6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始されました。
ララの認可に伴って、日本難民救済会の運動は、米国、カナダ、メキシコ、ブラジル、チリ、アルゼンチン、ペルー等南北アメリカ大陸に除々に拡大していきました。
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